大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和44年(あ)89号 決定 1970年9月30日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人野口一の上告趣意は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない(原判決の維持する第一審認定事実によれば、被告人両名は、外三名とともに、北海道知事の許可を受けないで、昭和四一年八月二一日、国後島ケラムイ崎北東約五海里で同島沿岸線から約2.5海里の海域において、漁船第八北島丸(9.24総トン)を使用し、ほたてけた網によりほたて貝約八〇〇キログラム採捕し、もつて小型機船底びき網漁業を営んだというものであるところ、原判決は、一般に漁業法における漁業禁止の範囲と許可可能の範囲とがつねに一致しなければならない理由はない旨の見解のもとに、国後島に対しては現在事実上わが国の統治権が及んでいない状況にあるため、北海道知事が同島の沿岸線から三海里以内の海面については漁業法六六条一項所定の漁業の許可を与えることが考えられないとしても、漁業調整の見地から前記本件操業海域は漁業法六六条一項の無許可漁業の禁止の効力が及ぶ範囲に含まれるものと解すべきである旨判断しているが、この判断は、正当として是認すべきである。)。

よつて、刑訴法四一四条三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。(草鹿浅之介 城戸芳彦 色川幸太郎 村上朝一)

弁護人の上告趣意

原判決は、本件公訴事実と同一の事実を認定したうえ、「第一審判決を破棄し被告人北島に対し罰金一〇万円、同山本に罰金八万円に処する」旨の判決を言い渡したが、本件は、次の理由により、漁業法第六六条一項、一三八条六号の解釈を誤つているものである。

原判決は、まず、「およそ国がある行政目的のため自国民に対し特定の行為を一般的に法律で禁止しようとする場合、禁止の規模は憲法の枠内でなによりも合目的的に決定されていいのであり、必要ならば自国民の他国における一定行為を禁ずることも不可能ではない」……「一般的に言つて禁止の範囲と許可可能な範囲が常に一致しなければならぬ道理はない……」との大前提に立ち、「水産資源の適正利用の見地や漁民保護の立場から、およそ事実上操業可能な全海域が規制の範囲に含まれるとするのが最も目的にかなう所以であり……沿岸漁業だからといつて属地的統治権という法概念を持ちこむことは根拠としては薄弱であるし、漁業調整の見地からすると一般禁止の効力が属地的統治の及ぶ範囲内に当然限られる必要はない。」とされる。

第一、しかしながら右判示は多くの点で誤りがある。

一、「法律がなければ犯罪はなく法律がなければ刑罰がない」という法諺によつて表現される罪刑法定主義は、近代的刑法を支配する原則の一であり現行憲法も第三一条、三九条でこの事を明らかにしており、もとより行政的刑罰に関する法規についてもその例外ではあり得ない。

罪刑法定主義の原則によつて支配される刑罰法規には、犯罪と刑罰は成文の法律によつて定むべきであるという事から当然に「類推解釈の禁止」が要求され法律の規定を越えて成文の規定のない分野に対して犯罪の成立を認めこれを処罰する事は許されないとともに、便宜的な解釈はきつくこれをいましめられるところのものであろう。

さて、行政的刑罰法規は、行政目的の実現を担保する為に行政法規に違反する行為を処罰するためのものであるが、このことは「許可」の実効を期する為の「禁止」であることを意味し、一般的には禁止の範囲と許可可能の範囲とが一致することが法律上の道理であると理解されよう。又行政的刑罰法規は、一般刑法と異りその特殊性に応じて(たとえば構成要件の構成が概括的又は包括的である)それの解釈におけるよりも目的論的方法がもちいられる範囲が広いという事を無視する事は出来ないとしても、前述のように無差別に行政上の取締目的を強調して解釈の超法規化を行うことを許すものではないのであつて、あくまでも法規の客観的な規範的意味の発見に努力すべきであり、単に法令の趣旨とか規範の精神とかでなく、あくまで法規の本来予定する範囲内における目的論的な解釈でなければならないのである。

ところで、行政法規は当該行政法規を制定する機関の権限の及ぶ全地域に効力を有すると同時に、その地域に限界を有するのが原則であつて、行政法規の通用する地域内にあるものは日本人であると外国人である等を問はず、又自然人であると法人であるとにかかわらずすべて一律に当該行政法規に服すべきである。これが言うところの属地的統治権(属地的管轄権)であろう。

二、以上のことから漁業法第六六条第一項、同第一三八条第六項の適用の有無につきこれを考えるに、漁業自体はその性質上日本国領海外又は日本国の支配権が現実に及んでいない水面においても営なまれてるとしても漁業法は本来漁業調整機構の運用により、日本国が漁業管理調整権をもつ水面の利用を調整して漁業の生産力発展を図ることを目的として制定されたものであり、同法の本来予定している水面は日本国領海乃至は沿岸漁業の操業海域とみなされる限度で、それに接する公海水面であり、外国の独占的支配する海域をもその規制対照としているとは考えられない。この事は行政法規の本来的な効力や小型機船底引網漁業の漁法や、都道府県知事がそれぞれ管轄する都道府県の地先海面の漁業につき、許可権限を持つものとされている事等から来る当然の帰結であろう。

右に関し福田鑑定人は、漁業法第六六条は、日本の領海及びそれに接する公海における行為にのみ効力を有するとされ、この場所的限定が犯罪の構成要件的なものになると主張されるが、まさしく前述の目的論的解釈からする当然の結果として是認される所である。

三、次に原判決は、漁業調整の見地から、一般的禁止の効力が属地的統治権(属地的管轄権)の及ぶ範囲内に当然限られると見る必要はない と判示しているが、これは、あまりにも権力的取締面のみを強調し、属地主義を原則とする刑罰法規の特質(第一審弁論要旨(一)三参照)を無視した性急な結論であると言わなければならない。

けだし、漁業法規は、前述した通り、我国の漁業調整を目的としたものであつて我国の関心を寄せ得ない他国の排他的漁業水面にまで我国が自国民に漁業権を付与することは法的に不可能であり、従つてかかる許可を付与することができない水面――事実上操業可能であるかどうかを問わず――にまで一般的禁止が及んでいるとは到底考えられないからである。

原判決は、右のようなことにもかかわらず漁業法の属地的管轄権を有しない水面における操業であつても漁業法第六六条一項により属人的管轄権に基づき処罰できるとするのである。

しかしながら、属地的管轄権による漁業法の規制は、我国が排他的漁業権を国際的に認められている水域(他国と競合的に管轄権を有する公海も含む)の規制であつて、その保護法益は専ら日本の水産資源ないしはその有効な利用であるのに対して、属人的管轄権による外国領海における自国民の規制による保護法益はここにはない。

立法論的には、日本国が他国の排他的漁業水域や共同規制水域における自国民の操業を規制することはもとより可能であるが、これは外国との操業にともなう紛争を避けるためのものであつて、その保護法益は外国との友好関係にある。ところで漁業法についてこのことを考えるに、保護法益を異にし、適用地域を異にするような規制を単一の同一条文で表現することは立法技術上考えられないし、又解釈上右のような多様性を右条文が規制していると判断することには論理の飛躍がある。更に又他国との紛争を生むかも知れないような行動の規制を都道府県知事にまかせるということ自体も通常あり得ないことであり、結局漁業法第六六条一項は属人的管轄を指したものではないと言いうる(判例時報五二二号一四四頁宮崎繁樹いはゆる北島丸事件参照)。

第二、国後島の領土的地位。

国後島を含む千島列島の国際上の地位については、第一審における弁論で論じ、又第一審判決においてもこの点に詳しくふれるところであるので、ここでは、簡単に述べるにとどめたい。

一九四六年一月二九日の「若干の外廓地域を、政治上、行政上、日本から分離することに関する覚書」において、千島、歯舞、色丹と共に我国の統治範囲から除外され、更に一九五一年九月八日のサンフランシスコ条約では「千島列島並びに南樺太及びそれに近接する諸島に対するすべての権利、権限、請求権を放棄する」と言明した。

これにより、千島列島は、いづれの国がその領土権を取得したかについて、種々見解があるが、それはさておき、国後島に対する統治が当初軍事占領として開始され、その後連合国最高司令官の発した一般命令第一号により、合法化され、日本国の統治権は前記覚書により、行使されなくなり、その状態は日ソ共同宣言によつても変更されていない。

従つて、国後島及びその海域に対してソビエトが行使している属地的管轄権も少くとも日ソ間に、それと異つた合意が成立し、現状が変更するまで、現状を一応、有効なものとせざるを得ないのである。

従つて、国後島には現在我国の属地的管轄権が及んでいないと言わなければならない。

第三、結論

以上の通り述べた如く、国後島には、我国の属地的管轄権が及んでおらず、従つて、被告人らの本件操業海域も、我国の属地的管轄権は及んでおらず、又漁業法第六六条一項は、属人的管轄権による規制を目的としたものではないのにも拘らず、原審が漁業法第六六条一項を適用して被告人を有罪としたことは判決に及ぼすべき法令の違反があると言うべく、ここに上告した次第である。 以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例